松山城

「松山や秋より高き天守閣」明治24年 正岡子規

松山城
松山城

松山城は四国最大の名城で21棟が重要文化財に指定された、勝山(城山)山頂に本丸を構える平山城です。日本三大平山城にも数えられ、山頂の本壇にある天守は、日本の12箇所に現存する天守の一つです。天守は姫路城と同じく、大天守と小天守・南隅櫓・北隅櫓を渡り櫓で結んだ連立式で、日本三大連立式平山城にも数えられています。


築城は関ヶ原の戦いで徳川家康に従軍し功績を認められた加藤嘉明が20万石の領主として伊予正木(松前町)から道後平野の中央にある勝山に城郭を移すため1602年に着手し1627年に一応の完成を見ました。


しかし、加藤嘉明は完成直前の1627年に会津へ転封されました。


現在の松山城は、幕末に建築された大天守ほか、日本で現存数の少ない望楼型二重櫓である野原櫓(騎馬櫓)や、当時の土木技術としては特筆される深さ44mにおよぶ本丸の井戸などが保存され敷地一帯は国の史跡に指定されており、建造物21棟は国の重要文化財に指定されています。

 

天守

創建当時には、現在、三重天守の建つ天守台に五重天守が建てられていたとされており、1642年に本壇がある標高132mの本丸広場の一部は谷を埋め立てているため地盤が弱かったからとも、武家諸法度の意を受けて、江戸幕府に配慮したためともいわれているが3重に改修している。その三重天守も1784年に落雷で本壇の主要建物とともに焼失し、現在保存されている大天守は、黒船来航の前年である1852年に、石垣普請とともに再建工事が完了し、安政元年(1854年)落成した3代目で、連立式3重3階地下1階構造の層塔型である。


大天守は高さ20m(鯱の高さを入れると21.3m)本壇は8.3mの高さがある。


幕末に親藩大名松平家により復興されたもので普請の精度は高く、建築材料には樟や欅また栂など一級と呼ばれる木材が使用されている。五重天守である福山城天守(9間×8間)のものをしのぐ規模の切込みハギの石積み天守台(8間×10間)の内側に、地下1階が造られ、3重3階の木造内部には、層塔型天守の特徴とも言える武者走りが各階に設けられており、その内側である身舎(もや)には天井を張り、鴨居と敷居で仕切られた畳床仕様で、かつ、床の間を設けている。外部は1・2階に黒塗下見張り、塗籠角格子の窓には突上げ板戸などを配し、屋根には千鳥破風や軒唐破風が付れられ、また、3階は白漆喰塗りで、格子がない引戸窓の外には、格式を高める目的で実用でない外廻縁、高欄が付けられている。なお、鯱を含め屋根は瓦葺である。


日本における最後の天守建築(桃山文化様式)であり、現存12天守の中で、唯一、親藩(松平氏)による普請であったため、丸に三つ葉葵の瓦紋が付けられている。

 

現存12天守

Wikipediaより写真転記
Wikipediaより写真転記

現存天守とは、日本の城の天守のうち、江戸時代またはそれ以前に建設され、現代まで保存されている天守のことであり、現在は12か所の天守が現存する。いずれも文化財保護法に基づいて国宝か重要文化財に指定され保存されている古建築で、このうち国宝に指定されている松本城、犬山城、彦根城、姫路城の四つの天守は「国宝四城」と呼ばれ。また国の重要文化財に指定されている八つの天守は「重文八城」と呼ばれる。


弘前城 松本城 丸岡城 犬山城 彦根城 姫路城 松江城 備中松山城 丸亀城 松山城 宇和島城 高知城の12が現存12天守と呼ばれています。

 

歴史

江戸時代

 

1602年(慶長7年)、伊予国正木(松前)城主10万石の大名であった加藤嘉明が、関ヶ原の戦いでの戦功により20万石に加増され、足立重信を普請奉行に任じ、麓に二之丸(二之丸史跡庭園)と三之丸(堀之内)を有する平山城の築城に着手した。


1603年(慶長8年)10月、嘉明が、この地を「松山」と呼ぶこととし、松山という地名が公式に誕生した。


1627年(寛永4年)、嘉明は、松山城の完成前に会津藩へ転封となり、蒲生忠知(蒲生氏郷の孫)が、24万石の松山藩主になる。


1634年(寛永11年)8月、忠知が参勤交代の途中に死去し、蒲生家が断絶する。そのため大洲藩主、加藤泰興が松山城を預かる(松山城在番)。城在番中に替地の申し出が、幕府になされる。


1635年(寛永12年)7月に松平定行が15万石の藩主となり、以降、松山藩は四国の親藩として235年間続き、明治維新を迎える。


1642年(寛永19年)、創建当初5重であったという天守を、定行が3重に改築する。


1647年(正保4年)、寛永の鎖国後、長崎に2隻のポルトガル船が入港したため、定行が家臣とともに海上警備に赴く。この時に持ち帰った南蛮菓子の製法が、銘菓タルトの原型とされる。


1703年(元禄16年)2月、松平定直が幕府から江戸松山藩邸での預かりを命じられていた赤穂浪士10名が切腹。


1784年(天明4年)、天守を含む本壇の主な建物が、落雷により焼失。


1828年(文政11年)、藩主・松平定通が文武の振興のため、藩学の拠点として明教館を創設した。


1854年(安政元年)2月8日、時の藩主・松平勝善が天守本壇を落成させる。

1866年(慶応2年)6月、幕府の命により長州征伐に出陣。屋代島を占領するも、速やかに兵を津和地島および興居島に引き揚げる。


1867年(慶応3年)、藩主・松平定昭幕府老中職となる(大政奉還により辞任)。


明治・大正時代


1868年(明治元年)、土佐藩が松山城を受領・保護。城主松平勝成は松平姓を返上し、旧姓の久松となる。


1870年(明治3年)、松山城三之丸が焼失。2年後に二之丸も焼失。


1871年(明治4年)、廃藩置県により松山藩から松山県となる。


1873年(明治6年)の廃城令による破却に本丸は遭わなかった。主に麓の城門・櫓・御殿など城外に払い下げられるが入札はなく、解体のみが行われた。同年、愛媛県が成立。


1886年(明治19年)より1945年(昭和20年)にかけて、二之丸と三之丸は陸軍省の管轄となり、松山歩兵第22連隊の駐屯地が三之丸(堀之内)にあった。


1891年(明治24年)、俳聖正岡子規が、「松山や 秋より高き 天主閣」の俳句を発表する。


1895年(明治28年)には、JR松山駅前に句碑がある「春や昔 十五万石の 城下哉」の句を詠む。


1923年(大正12年)、松山城(本丸)が久松家へ払下となり、そのまま松山市に寄贈され、以降、市の所有となっている。


昭和・平成時代


1933年の松山城放火事件や戦時中の空襲により大天守を除く幾つかの建造物が火災で焼失。戦後の昭和40年代から忠実に復元され現在に至る。


1935年(昭和10年)、天守など35棟の建造物が国宝保存法に基づく国宝に指定される。


1952年(昭和27年)に、二之丸と三之丸を含む松山城山公園が国の史跡に指定される。


1955年(昭和30年)にはロープウェイが、1966年(昭和41年)には平行してリフトがそれぞれ設置る。


1989年(平成元年)に、松山城山公園が日本さくら名所100選に選定された。


1992年(平成4年)4月に、大井戸などの遺構や茶室が整備された松山城二之丸史跡庭園が落成。


2004年(平成16年)10月より行われていた大天守ほか6棟の改修工事は2006年(平成18年)11月末に終了。改修を記念して、大天守の「しゃちほこ」に「天丸」と「まつ姫」の愛称が公募によって付けられた。また、改修工事中、江戸時代に侍を描いたと思われる、下見板裏の落書きが発見され、天守内に展示している。


2006年(平成18年)に、松山城山公園が日本の歴史公園100選に選定される。

2007年(平成19年)3月2日、情緒ある佇まいが残されていることが評価され美しい日本の歴史的風土100選に道後温泉と共に選定される。


2009年(平成21年)3月 ミシュランガイド(観光地)日本編において「2つ星」に選定される。

 

案内

観覧時間 9:00~16:30(季節により異なる)

 

観覧所要時間 ロープウェイ東雲口駅舎から90分以上

 

お城まつり 毎年4月の第一金・土・日曜日(日曜日には大名・武者行列がある)。

 

休み 無休(12月29日はすす払いのため閉城)

 

料金 天守閣観覧料500円(大人)、ロープウェイ・リフト往復利用料500円(大人)

 

このページ作成に当たってはWikipedia松山城(伊予国)から文章を転記しています。

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